岡田以蔵

岡田以蔵のお墓

おかだ いぞう(1838〜1865)。諱は宜振(よしふる)。

剣術に非凡な才能

江ノ口村(現在の高知市はりまや町3丁目)に生まれ、武市半平太道場で一刀流剣術の修行に励みます。その後、武市半平太に同行し江戸に出、桃井春蔵に入門し、鏡心明智流の剣法を学びます。

武市半平太について西国修行に同行した後、武市半平太が組織した土佐勤王党に加わります。しかし、以蔵は剣については非凡なものを持っていたのですが、学問的は苦手であったため、土佐勤王党の主たる活動には参加できなかったと言われています。

人斬り以蔵

幕末の激動の中で、以蔵はその非凡な剣技に生きるしかなかったのかもしれません。以蔵は佐幕派の要人を襲い、次々に斬っていきます。そして「人斬り以蔵」と呼ばれるようになり、恐れられていきます。

しかし、どういう経緯かは分かりませんが、以蔵は一時、幕臣であった勝海舟の護衛をしていたことがうかがえるモノが岡田以蔵の遺族の元に伝えられているそうです。それは、ピストル。ピストルは坂本龍馬が持っていた事が有名ですが、以蔵の遺族に伝えられている遺品の中にフランス製のピストルがあるそうです。当時、幕府はフランスから武器を調達していました。この遺品から、幕府関係者から以蔵がもらったピストルだという事が分かるそうで、この場合、勝海舟からもらったと考えるのが自然で、恐らく護衛のお礼にもらったのだろうと推察できるのだそうです。(この段落、坂本龍馬記念館学芸員の話を要約記載)

投獄そして斬首

土佐勤王党の獄が始まり、元治元年(1864)4月、以蔵は京都で捕らえられ、土佐へ移送されます。そして、山田町牢に入れられ拷問を受けます。尚、この山田町牢のすぐ西に以蔵の家があったそうです。拷問の苦悩には耐えきれず、少しずつ自供していく以蔵。以蔵の自供で土佐勤王党同士の身に手が及ぶことを恐れた武市半平太らは以蔵を毒殺する計画を図ったとも言われています。この毒殺計画は未遂となりますが、上士が仕組んだ罠とも言われ、真偽は定かではありません。

慶応元年(1865年)5月11日、以蔵は斬首されました。その 首は雁切川原にさらし首にされました。享年28でした。尚、同日に武市半平太は切腹。

君が為め尽くす心は水の泡消えにし後は澄みわたる空

これは、刑を受ける直前の辞世の歌です。土佐藩主や容堂公、そして武市半平太や土佐勤王党の同士に対して以蔵はどのような 心境だったのでしょうか。(2010年5月9日一部改定)

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