山内一豊と見性院

馬に乗る一豊の像

土佐藩初代藩主である山内一豊(やまうち かつとよ。1545-1605)は、妻、見性院(けんしょういん。1557-1617。一般的に千代として知られているが、まつとする説もあり、本当の名は不明。ちなみに、司馬遼太郎の小説「功名が辻」では、千代を採用)の内助の功で、大出世を果たしたと言われています。

出世街道まっしぐら・・・?

馬をひく見性院 尾張で生まれた一豊は、20代後半の時、10代半ばであった見性院と結婚します(当時の結婚適齢期からすると、一豊の結婚はなかなか遅いものでした)。
一豊は、生涯を通して、側室を設けなかったそうです。武士が側室を設けるのが当たり前だったこの時代では、非常にめずらしいことだといえます。こんなところからも、一豊が真面目で実直な人物であったことが伝わってきます。
ただ、そんな性格が災いしたのか、出世はあまり早い方ではありませんでした。
えっ?一豊といえば、見性院のへそくりで名馬を購入し、それが主君に認められ、出世を重ねたのではないのか?
―そう思われる方も多いと思います。しかし、実際は、最初から出世街道まっしぐら・・・ではありませんでした(ちなみに、名馬購入の話の信憑性は疑問のようです)。もちろん、見性院は、夫を慕い、支える賢妻であったと思われますが、関ヶ原の戦いまで一豊は、決して出世が早い方ではありませんでした。むしろ人に比べて遅い方だったようです。

夫婦二人で成し遂げた出世 〜笠の緒の密書と、小山軍議〜

では、いつどうやって、一豊は土佐藩主となりえたのでしょうか。その答えは、関ヶ原の戦いの直前に起こった二つの出来事にあります。
それは、見性院が、石田光成挙兵の情報を一豊に伝える際に機転を利かし、家康献上用の文箱と、一豊宛への密書の計二つを一豊の元に届けた「笠の緒の密書」。そして、当時居城にしていた掛川城(交通の要所である東海道にあります)を家康のために明け渡すと表明し、いち早く一豊が家康に忠誠を誓った「小山軍議」でした。
関ヶ原の戦いで、一豊は、何ら戦積を上げることができませんでした。しかし、密書と軍議で、家康への忠誠を強烈にアピールしたことが評価され、土佐藩9万8千石(後に山内家が石高を再計算したところ20万2600万余)を家康から与えられたのです。
妻の機転と、夫の忠誠心の強さ。まさに、土佐藩主という大出世は、夫婦二人で成し遂げたものだといえましょう。

一豊公の土佐治世

木がうっそうと生い茂る中にある一豊の墓 土佐藩主になるまでのエピソードはよく知られている一豊ですが、土佐入国後についてはあまり知られていません。
関ヶ原の戦いの翌年1月、一豊は200名近い家臣を従えて土佐に入国します。そして、それまで土佐を治めていた長宗我部氏の居城であった浦戸城(桂浜の北側)に拠点を置きます(後に高知城に移ります)。
ちなみに、前領主の存続を訴える長宗我部氏の遺臣たちとの衝突や、新しい領主に対する不安から多くの領民が山中に籠るなど、一豊の土佐での政治のスタートは、あまり穏やかなものではなかったようです。
一豊が土佐藩藩主として治世を行ったのは、1605年に亡くなるまでのわずか4年9ヶ月。藩の基盤を築き上げるには短すぎる時間でしたが、高知城の築城や、城下町、交通網の整備など、彼が手がけたことは決して少なくはありませんでした。
戦国の時代を駆け抜け、妻と一緒にやってきた南国土佐の地。彼は、戦国武将としての夢をこの地で叶えたのでした。

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メモ

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