山内容堂

容堂の座像

1827年〜1872年。山内豊信(とよしげ)。15代土佐藩主。
幼名は輝衛。容堂(ようどう)は隠居後の号。

思いもかけず藩主に…

容堂生誕の地 文政10年(1827年)、10代藩主山内豊策(とよかず)の五男豊著(とよあきら)を父とし、追手邸(おうててい。お城のすぐ近くの追手筋のあたりにありました)で生まれました。容堂の生母は、下級武士であった下士平石氏の娘で、豊著の側室でした。

容堂の生家は石高1500石の分家で山内南家と呼ばれていました。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育ちますが、容堂は分家の出であったため高知城下で生まれ育ちました。

後に幕末の四賢侯の一人と称され、明察力に優れた人物として有名な容堂ですが、青年時代はあまり勉学に励まず、お酒ばかり飲んでいたそうです。しかし、13、14代藩主があいついで急病死したのをうけ、15代藩主となってからは、それまでの自分を悔やみ、読書を好むようになりました。

14代藩主の豊惇(とよあつ)は藩主在職僅か12日という短さでの急死で、山内家は断絶の危機に瀕します。このため、急遽、豊惇は病気のために隠居したという形をとり、当時22歳の豊信(後の容堂)が養子となり、嘉永元年(1848年)12月27日、豊信が藩主となりました。

隠居へ

山内容堂の明治初期頃の写真(高知県立歴史民俗資料館所蔵品) 藩主となったのの豊信は幕政改革を訴えます。また、大老の井伊直弼と将軍世継問題で対立します。四賢侯は次期将軍に一橋慶喜を推し、井伊は徳川慶福を推します。結局、井伊直弼の推した慶福が14代将軍・家茂となることに決まります。豊信はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月に隠居願いを幕府に提出し、10月に幕府から謹慎の命がでます。隠居後、容堂と号するようになります。

大政奉還

尊王意識の伝統がある山内家に生まれながら、藩主となった経緯などから、徳川家にも強く恩義を感じていた容堂は、朝廷と幕府を一体化させる公武合体を実現する道を模索し続けました。当時、日本は幕末の混沌とした時代でした。外国から開国するよう圧力を受け、国内で政治不安が起こり、幕府と討幕勢力が互いに権力争いをしていました。双方が、事態の打開を図りましたが、両者共に決定打が出せず、政治均衡を生み出し、事態は膠着しました。

このような事態にあった慶応3年(1867年)、容堂は坂本龍馬発案「船中八策」を後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白したと言われています。その後、東京で余生を送った容堂は、酒と詩文の風雅を楽しみ、明治5年(1872年)、46歳でその生涯を閉じました。

鯨海酔侯

山内神社 容堂は、お酒と詩が大好きだったそうです。よく文人や学者、画家などが、本名以外に風雅な雅号をつけるものですが、彼もまた幾つかの号をもっていました。中でも「九十九洋(つくもなだ)」と、「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」という号が知られています。

九十九洋とは、土佐湾の別名です。土佐湾は、天候と黒潮の関係で波が荒く、交通の難所として古くから知られていました。東は室戸岬から、西は足摺岬まで広がる土佐湾の広大さと、荒々しさを九十九洋という号は意味していると思われます。また、鯨海酔侯は、読んでそのまま「よってそうろう」という無類の酒好きだった容堂を見事に表した号だといえます。山内神社にある容堂の座像(このページの一番上にある写真です。山内神社内にあります)は、右手にお気に入りのギヤマンの杯を持っていました!本当にお酒が好きだったんですね。(2010/03/13:改定)

メモ

【参考文献】

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