板垣退助

板垣退助の銅像

1837年〜1919年。
板垣退助は、現在高知市本町にある高野寺が建っている場所で、藩士、乾正成の長男として生まれました。参政(藩の政治・経済の中心となって差配する立場で、現在の会社に例えると取締役の様なもの)の吉田東洋の推薦もあり、土佐藩の様々な重職を経験していきます。明治14年(1881年)には、自由党の初代総理となりました。退助は時代が大きく揺れ動こうとしている時代に生まれ、また時代の流れを築いた人物でもあります。

現在、彼は自由民権運動を行った政治家として、また、2回も紙幣の肖像画となった人として、よく知られています。

悪童退助

板垣退助の生誕地 「やす!!」、「いのす!!」板垣退助と後藤象二郎はお互いをそのように呼び合い、幼少期から幼馴染として付き合ってきました。板垣退助の幼名は「猪之助(いのすけ)」、後藤象二郎は「保弥太(やすやた)」でした。二人は共に喧嘩が強く、年上の者を負かすほどでした。 当時、藩士の子どもは藩校入学前に寺子屋で読み書きを学んでいました。従って、退助も寺子屋に通うのですが、喧嘩や相撲などといった勝負事にばかり熱中する、手の付けられない悪童でした。
退助は、あまり学問を好まなかったようですが、軍書は好んだそうです。ただ、学問をしていなかったため、カナ付きでないと読む事ができず、「読んでくれ」と友達に頼んでそれを聞いていたようです。一方、竹内流小具足といった武術は熱心に学び、15才の頃にはかなりの腕前になっていました。
当時、15才の頃になると武家の青年たちは、居住地区によって組を作っていました。退助は南組のかしらとなり、他の北組、上組と出会えば衝突し、取っ組み合いを演じたといいます。

転機

安政3年(1856年)6月、退助は20才の時の喧嘩が原因で4年間の蟄居生活を命じられ、神田村(現在の高知市神田)に住まいします。この蟄居生活の時に、吉田東洋が退助の存在を知り、退助に期待するようになったといいます。
一年早く安政6年(1859年)5月に特赦され、退助はこの頃から勉学に励み、有事に備え、武術や馬術の鍛錬を重ねていったようです。そして、安政7年(1860年)には、参政である吉田東洋の推薦により、退助は免奉行(国税庁長官のようなもの)に就任しました。東洋は、土佐藩主山内容堂の信頼を強く受けており、粗野な退助を容堂の側に置き、練磨の機会を与えようとしたとの事です。
その後、退助は江戸藩邸での勤務を命じられています。東洋の推薦もあり,その後も様々な要職に就いていきますが、東洋の門下に入る事はなく、その思想も東洋や容堂、後藤象二郎とは異なっていました。東洋たちは「改革派」と呼ばれ、公武合体論を支持していましたが、退助はむしろ武力による倒幕を目指す尊王攘夷派でした。
開国論を唱える吉田東洋は、文久2年(1862年)尊皇攘夷を唱える武市瑞山の命を受けた者に、暗殺されてしまいます。しかし退助は、東洋の死に関しても思想の違いからか比較的冷静であったとされています。 

大政奉還から戊辰戦争

慶応3年(1867年)5月、江戸で兵学を学んでいた退助は、政局の動向を見るために京都に行きました。そこで同郷の中岡慎太郎に出会い、5月21日に西郷隆盛らと共に武力による討幕を誓ったといいます。しかし10月14日には後藤象二郎の活躍もあり、大政奉還がなされました。坂本龍馬や後藤象二郎によって平和的に討幕が成されたのです。しかし武力による討幕を望む退助にとって、この大政奉還は不満でした。なお、大政奉還がなされた一月後の11月15日には、退助と後藤象二郎のそれぞれの協力者である中岡慎太郎と坂本龍馬が暗殺されています。
慶応4年(1868年)1月3日、京都南部の鳥羽・伏見で幕府の軍隊と薩摩・長州を中心とする新政府軍との戦である戊辰戦争が始まりました。山内容堂から命を受けた退助は、1月13日に迅衝隊と呼ばれる郷士を主体とした戦闘部隊を率いて高知を発ち、1月28日に上京しました。2月14日には、約5千人を数える征討軍の総督府参謀の一人として退助は戦場へと出陣しました。
京都を発ち、3月5日に甲府城に入城した時に、退助は姓を「乾」から「板垣」へと変更しました(大垣で改姓したという説もあります)。甲府の地は、「風林火山」で知られる武田信玄の城下でした。その家臣である板垣駿河守信形の子孫にあたる退助は、「板垣」を名乗ることで、甲府の民衆に親近感を与えようとしたそうです。この甲府の地で、大久保大和率いる甲陽鎮撫隊と戦い勝利しています。その後も新政府軍は北上し白河城(福島県)を陥落させ、会津城(福島県)へと攻め落城させています。
後に板垣が士民平等論を掲げる発端となったのが、この会津攻めであったといいます。 退助は、会津の藩士と領民とが一致団結せず、領民たちは会津の興亡に無関心であったために簡単に会津を落とせたと感じていました。このことより、退助は豊かで強い国家を作るには、「国民全てが平等であり、団結していなければならない」という想いを抱いたそうです。

自由民権運動へ

1868年、元号が明治と改められます。
明治6年(1873年)、退助は「征韓論」を主張し敗れ、公職を辞します。そして、明治7年(1874年)に、高知に立志社を設立し、自由民権運動を推し進めます。その後、数々の試練を乗り越え、明治14年(1881年)11月9日には自由党の総理となり各地で遊説を行っていきます。
明治15年(1882年)4月6日に岐阜の神道中教院での演説を終えたところで会場を出てきた退助は、刺客・相原尚ふみ(あいはらなおふみ)に襲われます。この時負傷した退助が、「板垣死すとも自由は死せず」もしくはこれに類する言葉を発したとされていますが、真偽の程は定かではないようです。尚、この時に少年期に習得した竹内流小具足が功をなし、一命を取り留めたとも伝えられています。

板垣退助帰朝記念碑 丸山台(浦戸湾に浮かぶ小島)

憲法発布、国会開設、そして…

自由民権運動は、明治22年(1889年)発布の大日本帝国憲法や国会の開設に大きな影響を与えたと言われており、退助は、日本の立憲政治の礎を築くべく活動を行っていきます。明治31年(1898年)6月30日、退助62才の時に、総理大臣を大隈重信、内務大臣を板垣退助とする隈板(わいはん)内閣が結成されます。しかし、この内閣は内部紛争により、同年10月30日には崩壊。明治33年(1900年)に自由党を伊藤博文にゆずり、退助は政界から引退します。
大正8年(1919年)、退助は83歳でこの世を去りました。退助は東京の品川高源院の墓地に埋葬され、高知市の薊野にも分骨した墓が建てられています。(後年、高源院は移転し、現在は品川神社本殿の裏手にあります。)

板垣死すとも自由は死せず 退助の墓(高知市) 退助の墓(高知市)に続く急な階段

メモ

*本文中の日付は、すべて旧暦を用いています。
【参考文献】

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