高知城
高知平野を見下ろす高知城。高知県民に親しまれているお城です。高知城のある高知城公園は、天守閣にあがる懐徳館以外は24時間自由に散策できます。
水害は嫌!で改名
関が原の戦いの後、1601年に山内一豊が土佐国に入り、治めるようになりました。掛川城から浦戸城に移った山内一豊は、浦戸城では城下町を開くには狭いため、1601年、現在の高知城がある大高坂山に城を築くことにし、築城が始められました。
大高坂山は浦戸湾にも面し、南側には鏡川、北側には江の口川が流れ、地の利がありましたが、周辺は湿原が広がるデルタ地帯で、治水工事には大変苦労したようです。
1603年に、本丸と二の丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城しました。この時、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、「河中山城」(こうちやまじょう)と名付けられました。
城下は水害を度々被ります。2代の忠義は「水」に関係の深い「河中」の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって「高智山城」と改名します。以降、省略されたのか、いつのまにか「高知城」と呼ばれるようになったようです。そして、町の名前も高知と呼ばれるようになったようです。
高知城の変遷
1601年に築城開始、1603年の本丸と二の丸の完成、そして、1611年に三の丸が完成し、ほぼ全城郭が整います。その後、1727年に高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失します。1729年、8代豊敷が城の再建に着手し、1748年、天守ほか櫓・門などが完成します。残念ながら、天守は焼失前より小さくなったそうですが、焼失前と酷似した外観が保たれたそうです。1753年に再建が完了します。
一番上の写真には、追手門と天守閣がいっしょに写っています。全国広しと言えども、追手門と天守閣を1枚の写真に収める事が出来るのは高知城だけだそうですが、こじんまりとした城だからでしょう。
明治6(1873)年、廃城令に伴い、高知公園となります。この時、現存する建造物以外は破却されたそうですが、もったいない事をしました。
その後の太平洋戦争の空襲でも焼けることなく、1748年から1753年に再建された姿を我々に見せてくれています。
高知城の重要文化財
昭和9(1934)年当時の国宝保存法により国宝指定され、昭和25(1950)年の文化財保護法制定によって現存する天閣など15の建造物が重要文化財となりました。その内容は以下のようになっています。
- 天守
- 懐徳館
- 納戸蔵
- 黒鉄門
- 西多門
- 東多門
- 詰門
- 廊下門
- 追手門
- 天守東南矢狭間塀
- 天守西北矢狭間塀
- 黒鉄門西北矢狭間塀
- 黒鉄門東南矢狭間塀
- 追手門西南矢狭間塀
- 追手門東北矢狭間塀
「何がどこにあるかひとっちゃぁ〜わからん(何がどこにあるか全然分からない)」という人は、高知城にいらっしゃる土佐観光ボランティアに案内を頼んでみるのもいいかもしれません。木造天守のある城は現在国内に12個所あるそうです。尚、高知城(高知県・重要文化財)の別名は”鷹城(たかじょう)”だそうです。