土佐市に駅がない訳

地図

高知市の西に、土佐市という市があります。国道56号が抜ける市ですが、土佐市には鉄道の駅がありません。Web高知のおきゃくMLで、「須崎方面への鉄道の駅は、素直に考えると、土佐市にあってしかるべきだが、なぜ、土佐市方面に鉄道は延びず、わざわざ山間部の佐川町に延びてから須崎に向かうのだろうか?」といった事が話題になりました。そこで、この鉄道の路線や鉄道駅が決まるまでの経緯を調べてみました。

素朴な疑問

高知駅から須崎方面に向かうJR土讃線。特急が止まる駅を窪川駅までピックアップしていくと、以下の様になります。

高知 ⇒ 旭 ⇒ 朝倉 ⇒ 伊野 ⇒ 佐川 ⇒ 須崎 ⇒ 土佐久礼 ⇒ 窪川

須崎、窪川方面に向かう国道56号は、高知市を出発すると、土佐市の高岡を通り、須崎市に向かいます。須崎以西は国道と鉄道はほぼ平行して走っています。地形等を考えると、須崎に向かうのであれば、国道と同様に土佐市を通過していった方が素直な気がします。

この疑問を持ちつつ佐川町周辺の地図を見ると、土佐加茂(とさかも)駅から斗賀野(とがの)駅まで、2つのS字カーブが連続しているのが目に付きます。なんとなく、無理に西佐川駅経由にしているようにも見えます。何故、佐川駅以前に、西佐川駅を経由する必要性があったんでしょうか?

土佐鉄道の敷設運動から決定まで

以下、佐川町史を参考にまとめてみました。

土佐鉄道の敷設運動が始まったのは明治16年頃。始めは、松山から連絡する予土線か、阿波池田から連絡する土讃線かが研究議論されていました。明治29年に松山市ならびに久万町有志が佐川町に来て懇談の結果、土佐鉄道期成同盟会を組織。関係町村と運動を始めましたが、時期到来しませんでした。その後、土佐鉄道は土讃線のほうが有力視されるようになっていきます。

大正元年、高岡郡鉄道期成同盟会を結成し、高岡・吾川・土佐三郡の町村長27名の連署による請願書を作ります。そして、鉄道院総裁原敬に面会し嘆願。佐川町出身の宮内大臣田中光顕はじめ在京の高官たちの賛同、援助を依頼します。大正3年、佐川一致会を組織し、大正5年の予算に編入されることを請願した結果、大正5年に着工し、大正10年度に竣成開通することが決定されました。

ルート決定の綱引き

当時、土讃線は、「南線」と「北線」のルートが検討されていました。

このため、高岡町(現土佐市)を中心とする南線ルートの関係町村と佐川町を中心とする北線ルートの関係町村との路線争奪運動も熾烈でした。佐川一致会は、北線ルート決定を目指し、大正5年に土佐鉄道北線期成会を結成し、高吾北町村長にも協力を求め本格的な運動を始めました。

南線ルート、北線ルートいずれにするかの検討の中で、最も大きなポイントとなったのは、将来の松山への接続、予土線との関係と、伊予方面に対する荷客の集散によるものだった様です。 そして、将来の伊予線との接続に利点のある北線ルートに決定され、佐川経由の須崎市方面への鉄道敷設となりました。(個人的には、佐川町出身の田中光顕の影響力もあったのではないだろうか…とも思います。)

以上のような経緯で、南線ルートにあった土佐市に駅は作られなかった訳です。しかしながら、北線ルートの決定打となった予土線は、佐川発着ではなく窪川駅発着となっています。ただ、西佐川駅の充実、作られ方を見ると、将来的には西佐川駅を予土線に繋ぎたい…といった建設当時の思いを、感じずにはいられません。

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