大川筋武家屋敷
閑静な住宅街の中で、昔ながらの佇まいを残している大川筋武家屋敷。高知市の保護有形文化財です。かつてこの屋敷には、山内一豊に従って土佐に入国してきたとされる手嶋家が住んでいました。
手嶋家
初代手嶋吉十郎重次は、慶長6年(1601年)藩主山内一豊に伴って、土佐に入国し、高知城下に居を構えました。手嶋家は御馬廻(おうままわり)という上級武士でした。
少し話が脇道に逸れますが…一豊は、土佐入国の際、土佐での統治の助けになるように、家臣を連れてきました。しかし、これでは人材が足りないので、彼ら家臣に加えて、元々、土佐に居た武士でも山内家の藩体制構築に協力をする武士を登用しました。土佐藩では、一般的に土佐藩の支配体制の中にいた武士を「上士」と呼び、一領具足として各地に居住した武士を「郷士」と呼ぶようです。しかし、江戸時代後期には郷士身分は郷士株として売買されており、明確な定義づけは難しい様です。
この様な身分制度の中で、手嶋家は、所謂、上士としての身分を持ち、中位の身分でした。手嶋家の1代目と2代目は、かつて板垣退助の屋敷もあった中島町に住居があったようです。5代目は大川筋武家屋敷に住んでいたという記述が文献にあるので、大川筋の方に屋敷を構えたのは、おそらく3代目以降ではないか…と考えられています。
主屋
現在、この武家屋敷には、長屋門と主屋、そして井戸と畑があります。建物の間取り等は、江戸時代からほとんど変わっていないようですが、敷地は、昔の方が今より広く、西側に広がっていました。現在の面積になったのは、明治維新以後持ち主が変わってからだそうです。
門をくぐると、大きな木が迎えてくれます。左側には、にじり戸があり、武家屋敷に来たことを改めて感じさせます。正面の建物には、記帳や資料が置かれ、中は自由に見ることが出来ます。
主屋には、武士が住んでいた時の様子を推定して家具や調度類がおかれていました。また、接客用と日常用に空間を分けるための工夫の一つである「くぐり戸」もありました。さらに、違い棚や付け書院なども間近に見ることができました。書院造の場合、床の間が庭に近いところに配置されるのが普通で、大川筋武家屋敷でも床の間は、庭の一番近くにありました。
資料館
主屋の北側に資料館があります。ここでは、江戸時代の頃の大川筋武家屋敷を復元させた模型や、屋敷についての資料が展示されています。武家屋敷が建てられた頃から保存に至る経緯などを年表で表したものや、屋敷の保存に貢献した人物の武家屋敷の価値を述べたコメントも載っていました。様々なものが展示されていたのですが、その中でも特に目をひいたのが襖です。
奥座敷の押入れの開きに使われていたというこの襖。画家がジョン万次郎の漂流体験記を聞き取って描いたとされる「漂巽紀略(りゅうそんきりゃく)」の写本の一部が、中貼りに使われていたそうです。他にもなかなかユニークなもの(アルファベットや、剃刀の絵が描かれたものなど)がありました。襖の下貼りや中貼りに、当時の様子を知る手掛かりが残っているなんて、ちょっと驚いてしまいますね。
また二階には、当時この屋敷に数年間下宿していた高知県出身の作家大原富枝(おおはら とみえ)のことや、屋敷を明治時代所有していた漢方医であった花岡家についての資料が展示されていました。(たくさんの引き出しが設けられた薬入れ用のタンスがあったのですが、引き出しに薬の名前が書いてあって、なかなか使い勝手が良さそうでした)。
庭
もう一つ、屋敷の中でおもしろい!と思ったものが「水琴窟」です。これは、一般的に底に穴をあけた瓶を逆さまにして地中に埋めておき、その中に落ちる水の音を楽しむものです。瓶の中で水が落ちる音が反響して、美しい音をたてるそうですが、昔の人は、なかなか風流なことをしたんですね/。
メモ
【参考文献】
- 『大川筋武家屋敷調査報告書 平成7年度』高知県建築士会、1995年
- 『土佐史談 自201号至205号』土佐史談、1996-1997年
- 高知市大川筋武家屋敷資料館 パンフレット
関連リンク:高知市公式サイト