ジョン万次郎

足摺岬に建つジョン万次郎像

1827年〜1898年
わが国最初の国際人と言っても過言ではない中浜万次郎(ジョン万次郎)。漁師の子、宇佐への出稼ぎ、乗船した船の遭難…そして、無人島での生活。アメリカ人ホイットフィールド船長との出会い。海綿の様に様々な知識を吸収し、素直な少年は広い視野を持った青年へと成長します。彼の話が、坂本龍馬を初めとする幕末の土佐の青年たちに強く影響を与えました。

漂流

現在の土佐清水市中浜地区 1827年、土佐国幡多郡中の浜(現在の土佐清水市中浜地区)にある貧しい漁師の家に万次郎という男の子が生まれました。父親を8歳の時に亡くした彼は、若くして近所の庄屋へ奉公に出て、一家の家計を助ける存在となりました。ところが、ちょっとした悪さを主人に見つかってしまい、庄屋を飛び出してしまいます。そしてそのまま彼は、偶然近くにいた土佐国高岡郡宇佐浦(現在の土佐市宇佐町)の漁船に乗り込み、宇佐浦へと出稼ぎに出ました。

1841年1月、万次郎ら総勢5名を乗せて宇佐浦を出港した漁船は嵐に巻き込まれて遭難し、一週間ほど漂流した後、鳥島という無人島に漂着しました。そこで飢えをしのぎながら救助をひたすら待ち続けていた彼らの前にある日、一隻の大型船が近づいてきました。島へ食料を探しにきた、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号です。万次郎ら5人は誰一人命を落とすことなくこの捕鯨船に救助され、さあこれで後は日本に送り届けてもらって一件落着…となる予定でしたが、当時の日本は鎖国の真っ只中。外国籍の船が日本に近づくことは危険極まりない状況でした。結局ジョン・ハウランド号の船長ウイリアム・ヘンリー・ホイットフィールドは、彼らを日本ではなく安全なハワイへ連れていくことにしました。

出会いと決断 〜ジョン・マン〜

ジョン・ハウランド号の模型 ハワイに向けての航海の間、万次郎は捕鯨船の中で一生懸命働きました。当然のことながら英語を使う周囲の人間との会話も上手くできないわけですが、それでも彼は持ち前の人懐っこさで臆することなく彼らの輪の中に入り、コミュニケーションを図りました。そんな万次郎の姿を見ていたホイットフィールド船長は、徐々にある思いを募らせていくのです。「この少年をアメリカに連れて行きたい…。」ホイットフィールド船長は当初、救助した5人をハワイで降ろすつもりでいました。ところがこの万次郎に対しては、ハワイ到着までの数ヶ月間に未知の可能性を感じとったのでしょう、是非ともアメリカでいろんな勉強をさせてみたいと考えるようになったのです。船長と万次郎以外の4人は相談の末、万次郎本人の意思に任せようという結論を出しました。

「アメリカに行ってみたい!」これが万次郎の答えでした。もちろん4人に対しては恩もあるし、自分だって日本に帰りたい。でも、自分の知らない世界がすぐそこにあるのもまた事実で、そこに飛び込むチャンスはこれが最初で最後に違いない。それならば・・・万次郎は4人に別れを告げて再びジョン・ハウランド号へと乗り込み、いよいよアメリカ本土に向けて出発しました。この頃すでに万次郎は、他の船員から「マン(万次郎の略)」と呼ばれて可愛がられていました。さらにこの捕鯨船の名前をとって「ジョン・マン」という愛称で呼ばれるようになったのです。

アメリカ上陸 〜留学生第1号〜

万次郎の航海図(高知県立歴史民俗資料館蔵) 宇佐の港を出港してから2年あまり、ついに万次郎はアメリカにある当時最大の捕鯨基地マサチューセッツ州ニューベットフォードという街に足を踏み入れます。この瞬間を誰よりも喜んだのは、他ならぬホイットフィールド船長だったのかもしれません。初めて出会ってから丸2年、働き者で頭が良く、優しくて人懐っこい万次郎を、船長は我が子のように愛したといいます。

万次郎の書いたアルファベット掛け軸(高知県立歴史民俗資料館蔵) そしてそんな万次郎に対して船長は、英語や数学、測量、航海術といった様々な教育を受けさせました。周囲からは厳しい人種差別があったようですが、彼はそれに怯むことなく、船長の思いに応えて成長していきました。やがて学校を卒業した万次郎は、再び捕鯨船に乗り3年余りの航海を行います。この航海の最中には船長不在となる事態が発生し、船員の中から新しい船長を決める投票が行われました。そこで何と万次郎は、ベテラン航海士と同数ながら最多得票してしまったのです。しかし万次郎はそのベテラン航海士にすすんで船長の座を譲り、自らを副船長とするよう提案したそうです。

帰国 〜中浜万次郎〜

河田小龍が著した「漂巽紀略」の一部(高知県立歴史民俗資料館蔵) その後万次郎はゴールドラッシュに沸くアメリカ西部へ渡って資金を蓄えた後にハワイへと向かい、約10年ぶりに再会した高知の仲間2人と共にいよいよ日本へ帰国することになります。1851年、一行は沖縄に上陸しました。日本でもこの10年の間に状況が変化し、鎖国から開国への流れが生まれ始めていました。そんな折にアメリカから帰国した万次郎を、幕府や藩が放っておくはずがありません。沖縄、鹿児島、長崎と、いたるところで取調べを受けました。そしてあの日、一隻の小さな漁船で宇佐の港を出てから約11年ぶりに、万次郎は高知へと足を踏み入れます。そして高知でも同様に取調べを受けた後、生まれ故郷の中の浜に帰り母と再会するのでした。田舎の小さな漁村の少年は、11年の歳月を経て日本の将来を担う人間として戻ってきたのです。

中浜家紋 さて、無事帰郷を果たした万次郎を取り巻く環境は大きく変わります。まず土佐藩から武士の身分を与えられました。身分制度が特に厳しい当時にあって、これは異例の出世といえます(当の本人はあまり嬉しくなかったようですが)。さらに万次郎は名字帯刀を許可され、生まれ故郷の地名をとって中浜万次郎となりました。この時、万次郎は中浜家の家紋を決めます。この家紋は、丸に三ツ星と呼ばれるもので、航海と関係の深い星を家紋選んだと言われています。

そんな矢先、ペリー提督率いるアメリカ海軍が浦賀に現れました。俗に言う「黒船来航」です。こうなると、英語が堪能でしかもアメリカという国を肌で感じている万次郎に白羽の矢が立つのは当然のなりゆきでした。幕府に呼ばれた万次郎は江戸へと向かい、アメリカとの間に立って通訳を行いながら、一方で幕府に対し開国への熱い思いを語ったとされています。

国際人として

日本の開国に力を注いだ万次郎は、その後も翻訳や、航海、測量、捕鯨などの分野で活躍します。1860年には幕府が使節団をアメリカに送ることになり、万次郎も通訳兼航海士として再び太平洋を横断しました。この時のメンバーには勝海舟や福沢諭吉の姿もあったようです。さらにそれ以降も開拓調査や捕鯨、教授就任や海外出張など、様々な分野で活動を行いました。ヨーロッパ出張の際に立ち寄ったアメリカでは、あのホイットフィールド船長と約20年ぶりの再会も果たしています。

万次郎生誕150年を記念して建てられた記念碑 万次郎の歩んだ人生にはいくつもの奇跡がちりばめられています。もしそれらが何か1つでも欠けていたとしたら、万次郎だけでなくこの日本という国も異なった歴史を刻んでいたのかもしれません。しかしながらそれらの奇跡が起きたのは、万次郎の前向きでたくましく、誠実で誰からも愛される人間性があったからこそだと思うのです。

メモ

【取材協力】

【参考文献】

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