河田小龍

河田小龍

1824年〜1898年。
幕末から明治にかけ、高知県内外で幅広く活躍した河田小龍(かわだしょうりょう)。彼はジョン万次郎の取り調べを行ったことから、当時の日本人が知ることのなかった海外思想や世界情勢を知ることになります。彼の知見が坂本龍馬を始めとした幕末の志士たちにも大きく影響を与えたと言われています。

生い立ち

岡本寧甫塾跡の碑 小龍は1824年、高知城下の浦戸片町(現在の高知市南はりまや町)に、御船頭小姓組土生(はぶ)玉助の長男(通称:篤太郎(とくたろう))として誕生しました。小龍の父は土生家の養子でした。小龍は、祖父・金衛門の養子となり河田姓を名乗るようになります。小龍は幼い頃から絵がとても上手で、13歳の頃から南宋画の画家・島本蘭渓(らんけい)に弟子入りして修行を積みました。この時期に、雅号(筆名)を「小龍」としています。更に小龍は絵だけでなく学問に対しても熱心で、藩儒・岡本寧甫(ねいほ)の下で儒学などを学びました。

岡本寧甫は高名な学者で、その塾生は千人を超えるといわれ、小龍以外にも岩崎弥太郎や中江兆民、坂本龍馬などが弟子あるいは孫弟子として名を連ねています。小龍に対して更に大きな影響を与えたのが吉田東洋です。当時浦戸の船奉行だった吉田東洋は、小龍の父親の上司という立場にあり、更に岡本寧甫とも交友があった関係で、以前から小龍には目を掛けていたようです。

遊学

小龍の絵の才能を見抜いていた吉田東洋はある日、「京都に行って絵の勉強をしてはどうか」と小龍に提案しました。23歳の小龍は、吉田東洋について京都に行き、京都の狩野派9代目・狩野永岳(かのうえいがく)に弟子入りしました。ここでも才能を認められた小龍は、多くの兄弟子たちがいるにも関わらず、京都二条城の襖絵修復に抜擢されるなど、大活躍をしたようです。

狩野永岳のもとで3年ほど学んだ後、小龍は長崎へと向かいます。鎖国を行っている日本の中で、長崎は外国の文化に触れることのできる唯一の場所でした。小龍は、この地で蘭学などを学びながら異国情緒あふれる数々のものに触れ、また外国の目覚しい発展ぶりを知り、日本も開国し、早急に国際化しなければならないと痛感しました。

墨雲洞

河田小龍生誕地(墨雲洞)の碑 -高知市南はりまや町- やがて高知に戻った小龍は、自宅に画塾「墨雲洞(ぼくうんどう)」を開き、下級武士や町民たちを相手に絵や学問を教え始めました。この墨雲洞は、世の中の動きや日本の将来についての議論を交わす場ともなり、多くの人びとがその門を叩きました。塾生の中には、後に亀山社中や海援隊に参加することになる長岡謙吉や近藤長次郎、新宮馬之助、岡崎参三郎などもいたようです。尚、近藤長次郎は小龍の妻の甥にあたります。

ジョン万次郎との出会い

漂巽紀略の一部(高知県立歴史民俗資料館蔵) 1852年、小龍は吉田東洋から「約10年ぶりに日本に戻ってきたジョン万次郎の取り調べを行うように」という命を受けました。日本を離れていた約10年間に、すっかり日本語を忘れてしまっていた万次郎とのコミュニケーション手段として、絵が役立つことを、もしかしたら東洋は分かっていたのかもしれません。日本語を忘れている万次郎の取り調べには、相当な苦労があったようです。小龍は万次郎と寝食を共にし、徐々に互いの理解を深めていきました。そして、万次郎から聞かされるアメリカの発展ぶり(鉄道、蒸気船、モールス信号、選挙制度など)に興奮し、改めて開国への思いを強くしました。この時、万次郎から聞き取った内容をまとめたものが「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」です。

龍馬への影響

その翌年の1853年、ペリー提督率いる黒船が浦賀に現れました。外国の発展ぶりをよく知っていた小龍は、「現時点で彼らと戦争をしたところで到底勝ち目などない」ということを弟子たちに話しました。そんな小龍の前にやってきたのが坂本龍馬です。龍馬は小龍に対して、日本のこれからについての意見を求めました。小龍は万次郎から聞いたアメリカの現状を踏まえ、開国の必要性や外国に追いつくための方法などについての意見を言いました。龍馬は小龍の話に大いに感化されたと言われています。この時のエピソードは小龍の著書「藤陰略話(とういんりゃくわ)」に残されています。

晩年

その後、小龍は土佐藩士の薩摩派遣に同行し大砲鋳造の技術視察などを行ったり、自ら製塩事業や鉱山事業に手を出したりします。しかし、いずれも失敗。居を転々とし貧しい生活を強いられました。しかし晩年は、京都の琵琶湖疎水工事に立ち会い、記録図誌の制作を行ったほか、内国勧業博覧会などに自らの絵を出品するなど再び画家としての活動を行い、1898年に75歳でその生涯を閉じました。

河田小龍が描いた「高知市街全図」(明治11年3月11日)が高知市民図書館開館40周年記念で復版されています。当時の高知市街の様子が分かり、大変興味深いです。(2010/03/13:改定)

メモ

【参考文献】

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