大綱まつり

大綱まつりの様子

大綱祭りは、毎年8月の第3土曜日に、土佐市高岡町で開催されます。

このお祭りは、お昼過ぎから夜まで開催され、昼間は鳴子踊りや大綱太鼓の演奏が行われます。夕方から夜にかけては、このお祭りの目玉である綱引きが始まります。子どもの部と大人の部があり、それぞれで綱引きが行われるので老若男女を問わず楽しめるお祭りです。

大綱ってどれくらい大きいの?

大綱引きに用いられる綱のサイズは長さ約100メートル、胴回りが約1.8メートル、重さが約1.2トンという、とても大きな綱です。大綱引きが始まる前、準備された綱を一人で抱えてみようとしましたが、あまりに重く、全く持ち上げることができませんでした。この綱は、以前は荒縄で作られていたそうですが、縄の原料となる藁が手に入りにくくなったことと、土佐市の産業が製紙業ということから、現在は不織布製の綱となっています。

巨大な綱 綱引きの様子 賑わう観客

大綱まつりの起源

かつて土佐市を含む県西部で広く綱引きの行事が行われており、大綱祭りの起源にはいくつかの説があります。

承応3年(1654年)、土佐藩二代目藩主の山内忠義に仕えていた家老の野中兼山が、鎌田井筋(かまだゆすじ)と呼ばれる用水路の建設中に、労働者の士気を鼓舞するために始めたという説が一般的です。また、他の説には、弘岡井筋(ひろおかゆすじ)と呼ばれる用水路を建設した際の慰労や、犠牲者供養のために行った、という説があります。

この弘岡井筋建設には、面白い逸話があるのでご紹介します。

用水路の建設が難航していた或る日、雨が降る中、堤防の上で川の流れを見ていた兼山公の前に、一人の老人が現れました。老人は、兼山公とは知らずに、「川に一本の長縄をたらすと縄は流れに沿っていく、川の流れをよく観察し、水に逆らわなければ工事は完成する。」と、助言したそうです。兼山公は、その助言に従って工事を行ったところ、用水路は無事に完成したということです。

用水路建設後は、周辺の地区で東軍対西軍、北軍対南軍に分かれて綱を引き合い、勝利した組には豊作がもたらされるとして、この行事が伝承されていきました。一時、人口の減少や道路事情などで途絶えていましたが、商店街の活性化のために1977年に「大綱祭り」として復活し、今に至っています。

綱を引く子どもたち 大綱に挑む男衆 倒れこむ男衆

大綱まつりの昔と今

昔は、土佐市周辺の様々な地区で大綱引きが催されていました。

土佐市の北部にある野田地区では、お盆の15日の夜に鎌田井筋沿いの県道で大綱引きを行っていました。当日の朝には各家から手結いの縄を持ち寄り、男子総出でそれらをつなぎ合わせて大きな綱にしました。

この綱引きでは、野田地区より上手を北軍、下手を南軍とし綱引きを行っていました。「サイサイサイ」の掛け声と共に綱を取り、「サーノーウン、サーノーウン」の掛け声で綱を引き合い、味方が不利と見れば、観客も綱を取って自軍を助ける光景もよく見られたそうです。周りも大団扇や小団扇をもって、綱引きを盛り上げました。綱の中心部での取り合いは苛烈を極め、時には投げ出され、水路に落とされたそうですが、いったん落ちれば、水に流し、後にわだかまりを残さない潔いよいものだったそうです。

現在では、綱は土佐市商工会青年部が作り、第3土曜日に土佐市民会館前で綱引きが開催されています。

特に、祭りの終盤にさらしを巻いた男衆が300人ずつに分かれて引き合う大綱引きは、熱気に包まれます。綱引きの最中は、男衆に水打ちを行うのですが、その水が蒸発して、湯気を体から立ちのばらせるほどです。また、「大綱」「祭」と書かれた大団扇を前へ、後へと動かしながら綱引きを盛り上げます。現在では川に落とされることは無いのですが、綱引きの迫力や、熱気は昔と変わらないのかも知れません。普段は穏やかな町もこの日ばかりは、熱気と興奮に包まれます。

土佐市と江別市

土佐市は1978年に、北海道の江別市と姉妹都市になりました。その5年後に江別市の訪問団が土佐市を訪ね、大綱まつりを観覧しました。その翌年から江別市でも「土佐の大綱まつり」を江別市民まつりの日程の中に組み込み行っています。ここで用いられる綱は、土佐市の大綱祭りで実際に用いられたものを送って、使用しているという事です。北海道の地でも、高知の熱い綱引きが開催されていると思うと何だか身近に感じますね。

メモ

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