長宗我部元親

高知市長浜の若宮八幡宮にたつ長宗我部元親初陣の像

長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか。1539年-1599年)。長宗我部家21代当主。

戦国時代の土佐と長宗我部氏

長宗我部家の家紋(七つ方喰) 長宗我部氏は、鎌倉時代の始め頃に秦能俊(はた よしとし)が信濃から土佐長岡郡宗部(そかべ)郡(現南国市)に移り、長宗我部と名乗りだしたと言われていますが、定かではありません。この頃から、七つ方喰の家紋を旗印として発展し、岡豊(おこう)城を本拠地とします。そして、守護であった細川氏の庇護を受け、勢力を伸ばします。ところが、永正4年(1507年)細川政元が死去し、19代当主・長宗我部兼序(かねつぐ)は、後ろ盾を失います。

土佐の守護であった細川氏の力が衰えると、土佐国内の豪族が台頭し、力をつけてきます。土佐の幡多郡は細川氏と並んで一条氏が治めていましたが、幡多郡以外の地域で土佐戦国の七雄が(津野氏、大平氏、吉良氏、本山氏、安芸氏、香宗我部氏、長宗我部氏)並び立ち、互いに勢力の拡大を図ります。

永正5年(1508年)、本山氏、山田氏、吉良氏、大平氏らの連合軍は、長宗我部氏の本拠地である岡豊城を攻め、岡豊城は落城します。兼序は岡豊城で戦死、子・国親(元親の父)は、幡多庄の守護であった一条家に逃れます。そして、国親は一条家の保護により成長し、永正15年に一条氏のとりなしで岡豊城に帰ります。

岡豊城に戻った20代当主・国親(くにちか)は、次第に戦力と経済力を蓄えます。永正16年頃に、南の大津城を攻め天竺氏を滅ぼし、長岡郡の南部を制圧。そして、東部に在する山田氏を打ち、子の親泰(ちかやす・国親の三男)に香宗我部氏を継がせ、香美郡全域を支配下におきます。

その後、国親は本山氏に属していた秦泉寺(じんぜんじ)氏、大高坂(おおたかさ)氏、国沢氏と相次いで戦い、永禄3年(1560年)頃から本山氏と戦いますが、浦戸城攻略中に急病で6月15日に57歳で亡くなります。

初陣から土佐統一まで

長宗我部元親初陣の像 元親は、国親の嫡男として天文8年(1539年)に、岡豊城で生まれます。幼い頃は、色白でおとなしい子であった為「姫若子」と言われていました。元親の初陣は22歳で、永禄3年(1560年)の本山氏との「戸ノ本の戦い(場所は現高知市長浜)」です。その後、潮江城、浦戸城を攻めますが、浦戸城攻略中に父・国親が死去。元親は、国親の遺志を継ぎ本山氏を攻め、朝倉城を落城させ、本山城に本山氏を退かせます。この頃、吉良城(現春野町)を守っていた本山氏の兵が退いた事から、元親の弟・親貞(ちかさだ)が吉良氏の跡を継ぎます。永禄7年(1564年)、元親は本山城を攻め、これを奪い、土佐の中央部を手中に収めます。

元親は永禄12年、安芸郡の安芸国虎の居城である安芸城を攻め陥落させ、国虎は、8月11日に現安芸市の浄貞寺で自害します。こうして土佐の中央部と東部を統一した後、同年11月には一条氏の属城となっていた蓮池城(現土佐市)を落とします。元亀2年(1571年)には高岡郡の津野氏を降し、三男の親忠(ちかただ)に、津野氏を継がせます。そして、家臣によって豊後に追われた一条兼定の支配していた幡多郡に進出し、弟の親貞(ちかさだ)を入れて支配させます。その後も、一条氏や安芸郡の土豪の反抗等がありましたが、天正3年(1575年)7月に、元親は土佐一国の統一を成し遂げます。初陣から15年の時が経っていました。

四国制覇

浦戸城址から太平洋を望む 土佐は山々が急峻で、耕作地が少ない事から、家臣に十分な土地を与える事ができなかった為、元親は新しい土地を得たいと考えていました。元亀2年(1571年)に元親の弟である親益(ちかます)が、阿波の海部城主海部宗寿(むねとし)に殺害されるという事件が起こっていた事から、この恨みを晴らすという口実で天正3年、元親は阿波の国に侵攻しました。海部城の落城により、周辺の由岐、日和佐、牟岐、桑野、椿泊、仁宇の城主は人質を元親に出し降伏し、海部、那賀の2郡を元親は配下に治めました。天正4年、三好郡白地(はくち)に侵攻し、天正6年に白地に城を築き、この地を拠点とします。そして元親は、この白地城を拠点として西部から阿波を攻め、弟の香宗我部親泰には東部から攻めさせます。天正7年、富岡城主の新開道善(しんがい どうぜん)が降伏し、阿波の東南部諸将の殆どを元親が配下に治めます。

天正6年(1578年)夏、讃岐侵攻が本格化します。二男・親和(ちかかず)を西讃岐、雨霧城主の香川信景の娘婿とし、九十九城、仁尾城を落城させます。尚、仁尾城の落城は3月3日と伝えられており、この日に桃の節句をしない風習が近年まで続いていたと言われています。こうして西讃岐を支配下に治めた元親は、中讃岐へと侵攻し、中讃岐の羽床氏を降し、東讃岐へと侵攻しました。阿波・讃岐の殆どを勢力下に置いた元親でしたが、十河存保(そごう まさやす)は、織田信長の援助を受けて元親に抵抗していました。しかし、本能寺の変で信長が倒れます。この機に元親は十河存保の兵を破り、ついに天正10年、阿波・讃岐を平定します。

元親の伊予侵攻については、中国の毛利氏の動きに常に気を配る必要がありました。元親は、天正5年の織田信長の中国征伐により毛利氏が四国への勢力を割けなくなった機を捉え、南伊予の諸氏を降します。そしてついに天正13年の春に、河野通直を降伏させ、四国制覇を成し遂げます。

再び土佐一国へ

浦戸城跡案内板 天正13年(1585年)4月、豊臣秀吉は弟の秀長を総大将として四国征伐の兵を出します。元親は、各地で抵抗を試みますが戦いは不利となり、7月25日、秀吉に降伏します。こうして、元親は、阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみを領有することとなります。

天正14年12月、元親は秀吉の命により九州の島津氏を打つため、長男・信親(のぶちか)を伴い出陣し、ここで悲劇が起こります。戸次川(へつぎがわ)の戦い(現大分市)で、信親が家臣700人と共に討死。信親は、知勇兼備の大変優れた武将であったため、元親の期待も大きく、この時以来、元親の人が変わったようになったと伝えられています。尚、信親の遺骸は高野山に埋葬されましたが、後に分骨され土佐の天甫寺に葬られます。後に天甫寺は廃寺となった為、信親の墓は雪蹊寺(現高知市長浜)に移されています。

長宗我部元親の墓 元親は、一時、現在の高知城に大高坂城を築こうとしますが、まもなく浦戸城を築き、天正19年頃に浦戸城を居城として移ります。その後、秀吉の2度の朝鮮出兵や、慶長元年(1596年)8月のサン・フェリペ号浦戸漂着等の歴史的な事件にも関ります。慶長3年8月の秀吉の死去の翌年5月19日、61歳で元親はこの世を去ります。元親の墓は、現高知市長浜の小高い山の上にあり、太平洋を見下ろしています。

一領具足

一領具足供養の六体地蔵 元親が四国制覇を行う事ができたのは、一領具足(いちりょうぐそく)という、農民的な武士の力を基盤としていたからだと言われています。一領の「領」は、鎧や衣服等の揃いのものを数える際の助数詞ですが、具足(甲冑)一領を常に用意し、田畑の耕作を行う際は、槍の柄に具足をくくり付けて田の畦に立てておき、やれ戦だという時に、それらを身に付け戦場に向ったと伝えられています。日頃、農耕作業を行っている事から、体躯に優れ、足腰が鍛えられた者が多く、集団行動にも向いていたと言われています。

信長や秀吉の配下の武士は、兵農分離された職業的な武士となっていたため、一領具足も秀吉の四国征伐では役に立ちませんでした。元親は、九州征伐の後、家臣の編成を変え、政治力のある者を登用して重要な職につけたり、城下町を作り武士を町に集める計画をたてたりしました。しかし、城下に移り住む事を喜ばない者が多く、一部の重臣を除いては、従来の土地を所有したまま生活を続けることとしました。当時、彼らは土佐一国で約9000人いたと言われています。

メモ

【参考文献】
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