吉田東洋

吉田東洋(よしだ とうよう)。名は正秋(まさあき)、通称は元吉(もときち)、東洋は号。
文化13年(1816)〜文久2年(1862)。

祖先は長宗我部元親の家臣

東洋は1816年、高知城下の帯屋町の馬廻りの家格を持つ上級武士の家に生まれます。吉田家の祖先は、長宗我部元親の家臣・吉田政重と言われています。

よく、山内家が土佐を治める以前の長宗我部の家臣は全て下士(郷士)にされた様に語られますが、吉田家は藩政下では山内家に仕え、上級武士の家格を有していました。吉田家や安芸の野村家の様に長宗我部家臣から山内家の家臣となった人達もいます。

二人の藩主に登用される

東洋は幼少の頃から文武に励み、学者としても有名で、武市半平太の叔父でもある国学者鹿持雅澄(かもちまさずみ)にも学んでいます。尚、鹿持雅澄の身分は武市半平太と同じ「白札」のようです。
兄の死後、家督を継ぎ、27歳の時に13代藩主山内豊熙(とよてる)に船奉行に、ついで郡奉行に登用されます。しかし、藩主山内豊熙の死去により嘉永元年(1848)12月に辞職します。

嘉永6年(1853)、15代藩主山内容堂に参政(仕置役)として再び登用されます。この時、容堂の命により幕府への外交建白書を起草しますが、その内容は攘夷論でした。

安政元年(1854)6月、江戸で山内家の親戚である旗本松下嘉兵衛を殴打して処罰され、現在の高知市長浜に蟄居します。

人材育成に努める

吉田東洋が開いた鶴田塾の碑 -高知市長浜- 土佐に戻った東洋は、長浜で鶴田塾(少林塾)を開き、人材育成に努めます。門下生には、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎、間崎哲馬など、後に活躍する人達が多数います。

安政5年(1858)1月、東洋は再び山内容堂に登用され、参政となります。この後、安政の藩改革と呼ばれる革新的な政策を実行します。その内容は緊縮政策でしたが、「文武館」を設立して洋学を学ぶ道を開く等、教育に関しては積極投資を行っているのが特徴です。

鶴田塾の説明板―高知市長浜 また、後藤象二郎を幡多郡奉行、板垣退助を免奉行にとりたてた他、岩崎弥太郎を外国情勢視察の為に長崎に派遣する等、身分に関り無く人材登用を積極的に行いました。

尚、文武館は文久2年(1862)4月に山内容堂の志を継いだ山内豊範によって建てられ、後の慶応2年(1866)に到道館と名称を改められ、明治5年7月に廃校しています。15歳から29歳までは文武を必修とし、30歳から39歳までは文武のうち好むものを選択して一定の期間修練させました。文武館は幕末の土佐藩士の教育に大きな功績を残しています。

暗殺

吉田東洋先生記念(暗殺)の地の碑 東洋の考え方も攘夷論から公武合体論に変ります。進歩的な考え方を取り入れ、容堂を助け、公武合体論推進の中心的役割を担った為、土佐勤王党や保守派とは対立を深め、文久2年(1862)4月8日、帯屋町の自邸に帰る途中に、土佐勤王党の那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵により暗殺されました。享年48でした。(2010/03/14)

メモ

【参考文献】
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