絵金

田村麿鈴鹿合戦

絵金は江戸時代の文化・文政期に生まれ、狩野派を学んだ異端画家 です。迫力ある芝居絵は必見です。絵金屏風絵は平成21年4月に高知県指定有形文化財となっています。

絵金の生い立ち

文化9年(1812年)10月11日に高知市城下新市町の髪結いの子として生まれ、金蔵と命名される。

文化・文政期(1804〜1830年)の爛熟した町人文化はこの土佐にも伝えられ、 彼の生家である髪結い床にも、勇ましい武者絵や役者の似顔絵が張られていたと思われます。

幼少の頃から画才に秀でた金蔵は、城下に住むお城絵師・楊斎に師事し狩野派の画風を学び、頭角を現しました。

花上野誉石碑

絵金、江戸へ上る

文政12年(1829年)絵の師である楊斎の推薦により、藩主山内侯息女徳姫出符に際し 駕籠かきの名目で供に加えられて江戸にのぼりました。そして、藩邸の特別のはからいにより 江戸城御絵師・駿河台狩野五世の宗家に入門が許されました。

鎌倉三代記絹川村閑居

絵金、土佐へ戻る

江戸で、通常10年と言われる修業期間を3年で免許皆伝に当たる一字拝領を受け、 天保3年(1832年)土佐に帰りました。そして、武士に準ずる格式を持って、 家老桐間家のお抱え絵師にとりたてられました。

楠昔噺徳太夫住家の場

偽絵事件

高知城下での彼の才能への嫉妬反感が強かったのか、程なく「偽絵事件」が持ち上がります。

ことは、彼の元に出入りする画商が、彼が敬愛する先師(狩野探幽)の作を手本として描いた絵を無断で持ち出し 偽の署名落款を付け、高知城下の豪商に売りつけた事に始まります。

かねてからの反感や中傷から偽絵かきという汚名での極刑を言い渡され、 お抱え絵師の座をとかれ城下追放に処せられました。

楠昔噺徳太夫住家の場

絵金芝居屏風絵の誕生

高知城下を追放され、彼は放浪しながら紺屋・染め物屋の下絵・幟・凧などを描いて暮らしをつないでいたと思われます。 そして、おそらく上方にのぼり芝居者の中に入っていたのではないかと考えられます。

そして、流浪の果てに現在の高知県赤岡町の伯母の許に身を寄せたようです。 彼が須留田八幡の宮芝居に対抗するように、夏祭りの宵の景物として描き始めたのが、 彼の芝居屏風絵の始まりだとされています。

伊達競阿国戯場累

絵金の絵を見たい!!

この絵金の絵、本物が見たいと思いませんか?

高知市の東約20キロの浜辺の町、赤岡町では年に一度7月第3週の土曜・日曜日に、絵金祭りが行われます。

また、この1週間程前には、絵金祭の元となった須留田八幡宮夏祭でも参道に絵金の屏風絵が並べられます。こちらは、絵金祭とは違って、氏子の方が中心のお祭です。

絵金の絵は絵馬にもなっており、高知市の朝倉神社の夏祭(7月14日)にも絵馬台に乗せられて飾られますし、他にも「えっこんなところに!」と思う様な、神社のお祭に絵金の絵馬が飾られていますので、情報収集をしてお出かけ下さい。

お祭の時以外は、絵金蔵に行かれると良いと思います。

写真協力:赤岡町教育委員会、資料:絵金読本(赤岡町教育委員会発行)

↑ページトップへ

BACK
Copyright © 1996-生活創造工房 All rights reserved.