土佐神社離宮の志那祢様

土佐神社離宮のしなねさまの様子

高知市一宮(いっく)の土佐神社では、8月24日、25日に「大祭(志那祢様・しなねさま)」が行われますが、江戸時代から明治12年まで土佐神社の御神幸が行われていた土佐神社離宮(通称、小一宮(こいっく)様」)でも、8月25日に御神幸が行われます。

土佐神社離宮が建てられた経緯

古代より志那祢様はお船遊びと言って、浦の内(現須崎市)の鳴無(おとなし)神社に御神幸に行っていました。江戸時代の或る年、帰りに風雨が強くなったため、磯伝いに帰っていると、途中、狼に襲われ、とっさに松明を振りかざし狼を追い払ったそうです。これに懲り、翌年から五台山麓の吸江の磯を御旅所と決めお舟遊びで御神幸をするようになり、いつの頃からこの地に祠が建てられ、そして神社となったそうです。

明治13年に一本松に新しいお旅所が建立され、徒歩で御神幸が行われるようになり、土佐神社離宮(小一宮様)まで土佐神社の御神幸は行われなくなりました。

御神幸

神社の張り紙によれば「土佐神社離宮夏祭り」で、御神幸は午後三時出発、供回り役として、呼出しが一名、箒、鼻面、太鼓、弓、はぐま、大鳥毛、榊台、神輿が各二名割り振られていらっしゃいました。二時半頃に神社に到着すると、氏子の皆さんが忙しく準備をされていました。

なお、神官さんがお住まいになっている神社ではないため、神官さんは他の神社から来て下さるそうです。

供回り役張り紙 境内入口 お神輿を据付ました

御神幸は徒歩で、小一宮様から絶海(たるみ)地区を抜け大谷地区の端まで行き、引き返してきて、絶海公民館のところから北に上がり高須西町との境まで行き引き返してこられます。現在はお神輿を小さな手引きの車に乗せ、太鼓を叩きながら歩きます。御神幸の途中に声をかけ、神輿の下を潜らせて頂く事もできます。

御神幸出発前 御神幸に出発 御神幸の様子

焼夷弾で焼けた拝殿

御神幸の帰りを神社境内で待っている間に、古老の氏子の方から興味深いお話を教えて頂きました。

「太平洋戦争の空襲で焼夷弾を受け、当時の拝殿は消失してしもうたけんど、本殿は山の中腹に鎮座しちょったき焼けずに済んだ。戦後、今の場所に本殿を降ろしてきて、拝殿を新たに立てた。ほんやき、本殿の彫刻は戦前のものだから、なかなか立派ぞね・・・。」そして、「(山の麓を指差し)そこなくに、五つ小宮の神様が祀っちょった。焼夷弾で焼けたきに、戦後は一緒にして、祠を建てた。ほんで五社様。」五社様は拝殿の右横にありました。

拝殿 本殿 五社様

昭和の頃

昭和21年の南海大地震までは桜の名所として知られ、昭和6年に高知新聞社が定めた浦戸十景の一つに入っていますが、残念ながら今は面影をあまり感じません。お祭りの賑わいも失われつつあるようです。

「二・三十年前頃までは宵宮もやりよった。境内に土俵を作って子ども相撲もやりよったし、夜店も出て賑やかやったよ。前の水辺で花火を上げたりもしよった。けんど、若いもんが出て行って帰ってこんもんねぇ。ここも高齢化でだんだん寂しゅうなりゆうわよ・・・。」ここ絶海は高知市高須地区。住むのに不便のあるところではないと思うのですが、祭りを支える集落の高齢化が進んでいる様でした。(2012年8月)

絶海 境内前の国分川河口 境内で見つけたハンミョウ
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